濱田吾愛先生 フラメンコ学講座 VOL.2【LORCA y CANTE JONDO】 

濱田吾愛先生 フラメンコ学講座 VOL.2【LORCA y CANTE JONDO】フライヤー 未分類

フェデリコ・ガルシア・ロルカとは ― フラメンコを深く知るために


先日は
フラメンコ学講座 VOL.2 にご参加いただき
ありがとうございました。

今回のテーマは
フェデリコ・ガルシア・ロルカ

ご参加いただいた方には復習として、
そして今回はご都合が合わなかった方にも
内容の一部を共有させていただきます。

今回の講座では、
音源を聴き比べながら
ロルカとフラメンコの関係を紐解いていきました。

文章だけでは伝えきれない部分もありますが、
そのエッセンスをここにまとめています。

フラメンコを「なんとなく好き」から
「知っている」に変えるヒントになれば嬉しいです。

ロルカの人物像

ロルカ写真


フェデリコ・ガルシア・ロルカは1898年、アンダルシアに生まれました。
この年はスペインがキューバを失った年でもあり、時代の転換点に生まれた世代でもあります。

彼は38歳という若さで、スペイン市民戦争の中で命を奪われました。

ロルカは母方の姓であり、裕福な家庭に育ち、大きな屋敷で暮らす“お坊ちゃま”でもありました。
幼いころは足が不自由でしたが、人の中心にいるような存在で、常に人に囲まれていたといいます。

音楽が好きな家庭環境の中で育ち、家には蓄音機があり、母はピアノを弾きました。
自宅ではサルスエラ(スペインのオペレッタ)が上演され、9歳のロルカ自身も出演しています。

人間観察に優れていた彼は、その豊かな経験を後の作品へと昇華していきました。

一家はグラナダへ移り、ロルカはピアノを学びます。
父の希望で一度は法律の道へ進むものの、最終的には音楽と芸術の道を選びました。

宮廷音楽や民謡、歌曲などに触れながら、スペイン民族音楽への関心を深めていきます。

そして彼は“骨の髄まで詩人”でした。
その詩は、後に歌い手たちに愛され、旋律を伴って歌われ続けていきます。


ファリャとの出会い

作曲家のマヌエル・デ・ファリャはカディス生まれ。
内向的な性格ながら、パリでの経験を経てグラナダに移り住み、ロルカと出会います。

22歳の年齢差を超えた二人の間には、深い友情が生まれました。


ファリャという人物

ファリャは派手な音楽を書きながら、本人は非常に質素で内向的な人物でした。

ロルカとファリャは同じ民謡をそれぞれ異なる形で編曲・録音しています。
ロルカのピアノによる「小さな巡礼たち」、
ファリャの「カンシオン」。

同じ素材から異なる表現が生まれることは、非常に興味深い対比です。

ロルカの死を知ったとき、温厚だったファリャは激しく怒り、
その後アルゼンチンへ移住し、スペインへ戻ることはありませんでした。


1922年 カンテ・ホンドのコンクール

1922年、ロルカとファリャはグラナダで
「カンテ・ホンドのコンクール」を開催します。

失われつつあった“深い歌”への危機感から、
本来のフラメンコの姿を取り戻そうとした試みでした。

参加者をアマチュアに限定したため、
水準としては必ずしも高いものではなかったと言われます。

しかしこの試みは、
20世紀後半のフラメンコ復興へとつながる重要な一歩となりました。


コンクールの情景

アントニオ·ロペス·サンチョ作

当時の様子を描いたカリカチュア(風刺画)には、
二人の優勝者ディエゴ・ティナンサスと12歳のマノーロ・カラコール、
ゲストのニーニャ・ロス・ペイネスの姿も描かれています。

雨を椅子でしのぐ人々、
黒い服のファリャ、額に手を当てるロルカ。

その場の空気が今も伝わってきます。


芸術家たちとの交流によって生まれた作品たち

ロルカは民謡にも強い関心を持ち、
「13のスペイン古謡」を編曲・収集しました。

その中には、日本のフラメンコ教室でも親しまれている「タララ」や、セビジャーナス「ビバ・セビージャ」などが含まれています。
また、「夢遊病者のロマンセ」に登場する“ベルデ”も日本ではよく演奏され、軽やかなイメージで扱われることがありますが、本来はより重く象徴的な意味を持っています。

レッスンでは、アルヘンチニータのパリージョによる「ソロンゴ・ヒターノ」や、ロルカ自身のピアノによる演奏を実際に聴きました。
(この録音のわずか5年後、彼は処刑されます。)

また、セビジャーナス「ビバ・セビージャ」などに見られるように、民謡は時代とともに姿を変えていくという点も興味深いところです。

さらにロルカは画家としても活動し、
サルバドール・ダリ や
ルイス・ブニュエル
といった芸術家たちとも親交を持ちました。

彼が強く惹かれていた歴史的人物マリアーナ・ピネーラは、後に演劇作品として描かれ、女優マルガリータ・シルグによって上演されています。


先生がぜひ聴いてほしいとおっしゃっている音源をここに掲載します。
どれも、ロルカの世界観や当時の空気を感じるうえで欠かせないものばかりです。

ブラウザーをアップデートしてください

(アルベルティ〈朗読〉 夢遊病者のロマンセ)

(イバニェス〈弾き語り〉 騎士の歌)

(イバニェス〈弾き語り〉 わたしは戻る、自分の翼で)

(3つの河の小さなバラード)

ロマンセとは何か

今回の講義では「ロマンセ」という言葉が何回か扱われました。
現代のカンタオール(フラメンコの歌い手)が「ロマンセ」というものについて話しているのを見かけます。
ロマンセというのはどういうものなのでしょうか?

ロマンセとは、イベリア半島に古くから伝わる物語歌だそうです。

英雄伝説、悲恋、聖母の奇跡、復讐など、
さまざまな物語が歌として受け継がれてきました。

フラメンコの歌い手たちも、
とくにモーロ人の悲劇を扱ったロマンセを歌うことが多くあります。


スペイン市民戦争とフランコ

1936年、スペインでは
スペイン内戦
が勃発します。

これは、共和政を支持する勢力と、軍部を中心とした反乱勢力との衝突による内戦で、社会全体を巻き込む激しい分断を生みました。

その中心にいたのが
フランシスコ・フランコ
です。

彼は内戦に勝利した後、長期にわたる独裁体制を築き、言論や芸術活動は厳しく制限されました。

こうした混乱の中で、
ロルカは命を奪われることになります。

その死

1936年7月、フランコ軍が台頭し、そのわずか一か月後、ロルカはグラナダ郊外の
アイナダマール(“涙の泉”)で処刑されました。

同時に処刑されたのは、教師や闘牛士など、
社会に影響力を持つ人々でした。

彼の遺体や埋葬場所については、現在も諸説あります。

スペイン内戦終結後、フランコ独裁政権下では、
ロルカの作品は公に出版・上演が制限されていました。

それでも、志ある人々がその作品を守り続け、
1958年には全集が出版されます。日本にも輸入されていて、濱田先生のお父様が入手され、いまでもご自宅にお持ちだそうです。

濱田先生蔵書

濱田先生蔵書

女優マルガリータ・シルグらによって海外で上演され、
ロルカの作品は世界中で生き続けました。

代表作には
『血の婚礼』『ベルナルダ・アルバの家』『イェルマ』があります。


まとめ

ロルカの処刑は、単なる個人の悲劇ではなく、
社会に対する“見せしめ”であったとも言われています。

いわば彼は、
時代の中での「スケープゴート(身代わり)」のような存在だったのかもしれません。

それでも彼の言葉と作品は、
時代を越えて生き続けています。

短い人生の中で生まれたそのエネルギーは、
今もなお私たちに強い影響と感動を与え続けています。

フラメンコは、知れば知るほど
見え方・聴こえ方が変わっていきます。

今回のロルカも、
その入口のひとつにすぎません。

フラメンコ学講座は、
今後もテーマを変えながら続いていきます。

「もう少し知ってみたい」
そう感じた方は、ぜひ次回ご一緒できれば幸いです。VOL3は「ヒターノ」を扱う予定です。

お申込み

お問い合わせはこちら。



    お電話でのお問合せは
    090-9207-4070

    Eメールは
    mail@flamenco-mari.com
    LINEは

    LINEでお問い合わせ用のQRコード

    担当:三浦


    タイトルとURLをコピーしました